昭和42年1月1日 朝の御理解
本年もいよいよ、一心を持って真の信心を貫かせて頂きたいと思います。もう、十年にもなりますか、三代金光様がまた御在世のころのある正月の元旦のお書き下げに、一心の真と、全教の者に、信心のスローガンとでも申します、(信心の?)お書き下げを下さった事がございます。私共も今年もいよいよ一つ一心の真を尽くし、捧げたいと、まあ覚悟しておるわけでございますが、皆さんもどうぞ一心の真を追求して、一心の真を持っての、今年の信心の目当てとしたいと思うのでございます。
一心。一心とは迷いのない事ぞとこう仰います。一心とは迷いのない事。真という事は本当な事という事だと私は思います。どれだけ一心を持ちましても、真のところにそれが焦点が置いてないとおかげにならんと思います。いやおかげになりましてもそれは本当のおかげではないと思う。本当のおかげとはどういうようなおかげをいうのであろうか。本当の私はおかげは、神も喜び氏子も喜び、金光大神をもの喜びじゃと仰る、そういうおかげであると思います。
今年は広大なおかげを頂きましたと言うておっても、そのおかげが神も喜びという事になっておらなければならん。金光大神、いうなら、取次の者も喜びという事になっておらければならない。金光大神が一番喜んで下さる事、取次の、取次の神業が天地の親神様のお喜びにつながるおかげとはどういうようなおかげであろうかと。一心の真の持っていきどころ。
昨日は例の通りにいろいろ、準備終わりましたのがちょうど一時半でございました。もう、私がここで御初穂の整理をさせて頂いておりましたら、年始に参ってみえる方もございます。もう夜が、十二時過ぎたんですからね。それから、まだ、いわば41年での最後の締めくくりができていないのですから、御商売なされたかたたちゃ、まあ様々な用件がございますから、まあそのころからお参りがございます。それは年末の御礼お届けでございます。中に一番最後に田主丸のむつやさん達が、田代さん達親子、善導寺の久保山茂さん達が夫婦、親子で参られました。いろいろと一年の御礼お届けがございました。そしたら神様から急に、ここにお届けをさせて頂きよりましたら、まあ分かりやすく申しますと、今年という年は御造営に明けて御造営に暮れたなという意味の事を頂きました。私も感激なら、田代さんも感激、茂さんももう本当に声を出して泣かんばかりの感激でございました。今年という年は、御造営に明けて御造営に暮れた一年であったなと。
しばらくそのお互いの感激のあとに、田代さんが言うておられます。むつや一同の者がお使い回しを頂いて、おかげを頂きまして、今年のおかげは、何を先にお礼を申し上げてよいか分かりません。それだけでした。もう万感もうこもごもと申しますか、もうお礼の一言二言じゃない、あれもこれも本当に神様のお引き回しの中に、なるほど御造営に明けて御造営に暮れました。本当にむつや全体をその事にお使い回しを下さいましたが、むつや自体もこのようなおかげを蒙りまして有難うございます。何を先にお礼を申し上げてよいやらという事でございました。
私は思うのですけれどもね、そういうおかげこそ私は、神も喜び金光大神も喜び、氏子をもの喜びじゃという事になるのじゃなかろうかとこう思います。いかに御造営御造営と申しましても、自分の身の切られるような、例えばおしみのつくような、または、本当に苦しい思いの御造営への奉賛であったら、神様は本当に喜んで下さらない。金光大神をも喜び、氏子も喜び、なるほど神の用を足せば氏子の用は神が足してやると仰っておる。神様の願いの成就する事の為に氏子が一心にならせて頂いたところに、氏子の願いはもう神様がお聞き届けを下さっておるというようなおかげ。こういういうならあいよかけよの助かりというところにです、私は一心の真が、しかも迷いなくそれに捧げ、尽くされぬかれていかなければならんと思うのです。
今年もまた御造営に明けて御造営に暮れる事でございましょう。しても本当に椛目の御信者さん方は大変だろうと、あれだけの事をしておられるのだから大変だろうと誰が見ても思われる中にあってです、なるほどそういう非常時の中のです、通り抜けさせて頂きながらもです、ながらも私一身私一家の者がこのようなおかげを頂きまして何を先にお礼を申し上げてよいやらというようなおかげにつながっていかなければならないという事なんです。そこに私は今年の一心の真というのは捧げさせて頂いたら間違いないというふうに感じるのでございます。
本当な事へ焦点を持って打ち込んだらです、一切がおかげになっていかなければなりません。小さい、自分のこの事は今年どうでんこうでんおかげを受けんならんというおかげから、もう一歩前進させて頂いておる。神様、私におかげを下さい、私におかげさえ頂けばというのではなくてです、神様の願いがまず成就する事に一生懸命にならせて頂いたら、私の事は夢にも思わないおかげに進展していくようなおかげこそ、神も喜び氏子も喜び、金光大神をも喜びじゃという事になっていくのじゃないでしょうか。
一心の真をいよいよ間違いのない一心を、そのいよいよ真の事、本当な事へ打ち込む。本当な事へ打ち込むという事は、椛目にご縁を頂いておる限りの人がです、真心の心を一つにして、しかも迷いなく一心にその真を御造営に打ち込んでいくという事が一番間違いのない事ではなかろうか。いよいよ神の願いがそこに成就される。暁にまではない。もうそこには私共の願いはもう成就していくおかげが頂けれるのだ。
昨日の朝の御理解の後でした。善導寺の原さんがお届けをしておられます。先生今朝方からこのようなお夢を頂きました。まだ実りには早い、稲田を頂かれた。その稲田の真ん中に、うらしまという花があるそうです。私もよく、先生のお好きな花だといわれたんですけれども、私も見当がつかんで言うんですけれど、そのうらしまという花が真ん中に一むらそれが咲いておるというお知らせであった。その後にお届けをしておられます。年々の事でございますけれども、今年も万事広大のおかげの中に原一家の上におかげを頂きました。原一家の者が本当に、いわゆる御造営に明けて御造営に暮れさせて頂きましたが、もう本当に原一家の事は神様がもう見ておって下さいます。原一家の事はもう神様が支えておって下さいます。信心のなかった昔は、原さんおたくは忙しかですねと、いつ来たっちゃ忙しかですねとみんなが言うてくれておった時代にはです、やっぱり年末になったら、さあ借金払いに四苦八苦であった。不思議な事です。本当に考えれば考えるほど不思議な事です。それぞれの仕事が都合、忙しいという事もない。にもかかわらずです、今年もおかげを頂きまして何もかにも済ませて頂くだけではなくて、来年は家庭的にもいろいろ様々、お正月には、お婿とりでございますけども、その準備も段々できさせて頂きます。本年、これはと思うておった御造営の御造営費もこうしてお供えさせて頂く事ができました。娘の三人たちが次々と縁につかせて頂いて、一番すその娘さんが縁につかれる時でも、本当にもうどんなに考えても不思議でたまらない、どこからどうしてこういう事ができるだろうかというようなおかげの中に、私の( ふわたり ? )としては勿体無いようなところに、勿体無いようなしつけもさせて頂いて、おかげも頂いて、有難いという事を、のお届けがございましたが、本当に、あの、一心の真をそこに焦点を置かれておるところにです、もうそれはどんなに考えてもそろばんの上では合点のいかないようなおかげが原一家の上にあってです、その上にです、原一家の上になさらなければならない事はちゃんとなさせて下さって、おかげを頂いておるとこういうのである。
さあ原さん、もう一辛抱でしょうね。実りのいわば秋がもう間近。お夢の中で頂いておられるお知らせもです、そうして目覚しいおかげではなくても、今度は実りがいよいよ成就した時のおかげが有難い。真ん中に一むら、うらしまの花という事は、皆さんが浦島太郎なら私の事を亀と神様が言うて下さる。いよいよ亀の背中に、いわば親先生任せの信心をさせて頂いて、親先生におすがりさせて頂いておれば、お任せさえしておればと、親先生の願いのところに、親先生の思いのところに、いうなら金光大神の願いのところへ焦点を置いて、原一家の者が進んでさえいけば、必ずこれが実りのおかげになってまいります事でしょう。いわば龍宮へ到着も間近という感じというようなお届けでございました。この神様は不思議な、中途半端じゃいけません。本当に一心の真というものがそこへ焦点が置かれてです、一心の真を貫かなければいけません。しかも貫くところはです、これならば間違いのないというところに、打ち込んでいくのです。そこには、原の一家も助かれば、神も喜び金光大神も喜びというおかげが頂けるのです。それが力に、そして徳にならんはずはありません。必ずこれがいよいよ万年豊作というような、おかげを頂く事ができるでしょうと。
もう一つ、今年はいよいよ狂いのない焦点をそこにおいて、一心の真をそこに貫かせて頂きたいと。神も喜び氏子も喜び、金光大神をも喜び、いわゆるあいよかけよで喜び合うていけれる、神様の願いの成就のために私共が前進させてもらうという事。
奉仕の焦点をそこに置かせていただくならばです、もうこれは絶対の間違いのない事だと私は確信いたしております。
皆さんもどうぞそういう信心をです、いわゆる御造営成就信心生活運動という椛目全体のスローガンのもとにです、一心の真を貫かせて頂きたいとお願いしておるわけでございます。どうぞ今年も、また御造営に明けて御造営に暮れる事でしょう。事によって私共もおかげを頂き、いよいよ身に家に徳を受けていきたいと私は思うておるのでございます。
どうぞ。